ODで入院した話

 

私は、自殺未遂をしました。

 

OD(オードバーズ…薬の過剰服用)で意識を失って入院した。

 

自傷行為の一種で、それまでは少量(30錠ほど)のODで多少の気持ち悪さや感覚の不安定さだけを感じて眠っていたのだが、その日、もう全部が辛くて悲しくて、家にある薬全部飲んで死んでやろうと思った。市販の薬で死のうなんて浅はかでしたね。自分の足で薬局に行って有り金で買える薬をありったけ買ったりもした。

 

300錠弱を副作用も気にせず強い薬ばかりがぶがぶ飲んだ。飲み終わった時にはもう眠気が酷くてそのまま倒れるように寝たのだが、意識が薄れる中で後悔の思いを感じた。

家族が帰ってきて、揺すぶられて目がさめた。

お帰りを言おうとして起き上がったところで胃液のようなものだけを吐いた、すごく酸っぱくてとにかく薬の匂いがした。そのあとすぐに手が痙攣して鼻から抜けるゲロと薬の香り、家族の焦る顔、その状況になんだか呆れちゃって私何やってんだろうっておもしろくなっちゃっている自分、止まらない全身の痙攣、支えられながら車まで歩いて席に座ったところからもう記憶が一切ない。この時はもう考えることが出来ず、ふわふわして気持ち悪くて面白いな、これなんなんだろう?と、他人事で夢現だった。

 

これは家族から聞いた話なのだが、車で病院に向おうとしていた間も嘔吐と痙攣が止まらなかったらしく、救急車を呼ぼうということになって路肩に止まって呼んだのだが、救急隊員の人が私に触ろうとすると泣きながら暴れ、蹴ったりしてどうしようも無く嫌がったらしい。救急隊員の方々、ごめんなさい、本当に。

 

そのあと無理やり拘束されて病院で意識の確認のために話しかけたのだが、訳の分からない返事をしていて会話が全く出来ておらず、呼吸も不規則だったので集中治療室でずっと酸素マスクをつけて見守ってくれていたのだとか。高熱が出ていて、夜中に大汗をかき、氷枕をつくってくれたのは、うっすらと記憶があるような気がする。

 

目が覚めたら病院で、点滴と酸素マスクと心電図が付けられていることを理解出来た。

看護師さんは呂律が回らず上手く答えられない私に、優しくここがどこか説明してくれた。それから数日間は、毎日ここはどこか、自分は誰か、何歳か、などの基本的な受け答えが出来るか検査されたのだが、上手く言えなくてもずっとニコニコしながら待っていてくれる看護師さんに凄く泣きそうな気持ちになった。

 

あと一番感動したこと、病院食も上手く食べられなかった私に看護師さんが食べさせてくれたパイナップルが世界で一番美味しかったこと。体が自由に動かせないので、喉が渇いても水を飲めなかった私には、その甘い水分は本当に本当に美味しくて泣いてしまった。パイナップルをたべながら、生きてて良かったと泣いたよ。

 

そのあと順調に回復し、退院してからも意識は宙に浮いているようで、話しかけられても上手く理解するのに時間はかかったが、今ではもう前と変わらない生活ができています。これは奇跡で、私には生きている意味があるんだなあと強く感じる出来事です。

 

本当に、辛くて辛くて死にたい時はあるけれど、絶対に生きていた方がいいよ。みんな、生きようね。私も頑張るからね。

小さな事に感謝出来るようになって、沢山の人に迷惑をかけたけどそれでも見捨てないで居てくれる人が居ることに気付くことの出来たこの出来事は、意味のあるものだったと思う。

 

助けてくれた人、ありがとう、本当にほんとうに、ありがとう。

 

今でも軽い後遺症で手の震えがあるけど、これも私にとって必要なものだと思ってる。

元々忘れっぽかったんだけど、さらに忘れっぽくなってしまったしね。

 

今日はそんな、前向きな昔話をしてみました。忘れない様に、ね。

あと、OD自殺は辛いからみんなやめた方がいいよ〜ってのもつたえたくて。

それともうひとつ、自殺を行動に移してしまうまで抱え込まないで、その前に馬鹿らしくて大げさでおかしい事を一緒に考えよう、自殺して苦しむならその前に、今まで出来なかったことを思い切ってやってみるのも楽しいよ、自由に自己中に生きよう、どうせ私の見てる世界は私だけの世界だし。そんな感じです。

 

つまんないなこの話、ごめんね(笑)

 

おわり

愛の話

 

愛ってなんですか?という、とことん考えるだけ無駄の馬鹿らしい疑問であり、なおかつ人生において誰もが考えなければならず、また、生き物の一生に必要不可欠なものの定義の話をします。誰にも分からないし、私にも分からない、そして、人生において何度も何度も模索しながら答えが幾度と無く変わる、最大難関問題です。

 

 

たまに、「私は誰にも愛されてない」と言う人が居ます。

私はそれを100%有り得ないと考えています。

何故あなたの母親はあなたを産んだでしょう?好きな人との間に授かった子だから、子どもが好きだから、家族が欲しいから、産むしか選択肢が無かったから、後継ぎを残すため、堕ろすのを反対されたからなど、その家庭によって実に多様な理由があります。本当は産みたく無かった人も居るでしょう。

でも、命懸けで産んで、初めて抱っこした時に、やっぱり産まなきゃ良かった、こんな子憎たらしい、なんて思う人間が居ますか?

 

もし、あなたの母親はそう思ったとします。

じゃあ、あなたが幸せってなんだろう?と考えられるまでに頭も体も成長し、経験を積み、食べて寝てこれたのは何のおかげでしょうか。

 

もしも、母親はあなたを産んだ時からあなたの事を大嫌いで、育ててくれた人も仕方なく嫌々育てたとします。

そうしたら、どうしてあなたはこんなにも誰からも嫌われたまま生きているのですか?

人間は、たった一人からも愛されず、たった一人からも、一度も、必要とされずには、生きていけません。人間は他の動物と比べて賢い生き物です。賢いからこそ、自分で死ぬほうが楽だと考えてしまう脳みそがあります。動物達は、足を食いちぎられても、子供を食べられても、脳が動いている限り生きようとします。どうしても生き延びようと必死にもがきます。

それはなぜですか?

 

それは、産まれたという時点で、世界はあなたを特別に愛しているからです。すべての事に意味はあって、意味を知らない、分からないままの方が魅力的で生きやすい時もありますが、全てのことに何らかの意味があります。人間が知らない、大切な意味もきっとあります。大地や世界や先人や神や色んなものが作った意味があります。

生まれた意味も、必ずあります。神様は、きっといて、私やあなたの事がとってもとっても大好きなはずです。

 

少し宗教的で、押し付けがましい考えでしょうか?でも、あなたが気が付かないだけで、この70億人と沢山の生き物達が居る世界には、あなたを必要とし、あなたを愛し、あなたに愛されたい生き物が絶対に居ます。70億人から嫌われる事がそんなに簡単な事ですか?

 

あなたは誰かを好きだと思ったり、愛したことはありますか?

この人が好きだ、ここを気に入った、これを愛している、そう思えるのは、経験があるからです。愛し方を、あなたに教えてくれたものがあるからです。愛し方に間違いはありません、愛した相手を殺すのも、束縛するのも、愛しているのなら、間違いではありません。

でも、愛というのは、相手を愛おしく思い、相手が幸せであるようにと願い寄り添いたいと思う事です。殺すことは、相手が幸せであるようにするための、愛ですか?束縛は、相手が望んだ、愛ですか?

 

面倒な長話はやめます。

誰もが絶対に絶対に愛しているものがひとつだけあります。それは何でしょう?

 

自分です。自分に対して、死んでしまえばいいと思いますか?それは、自分の気持ちを楽にしてあげるための手段であり、悲しくて行き過ぎた優しさです。あなたは自傷行為をしますか?お願いだから死なないで、もう少しだけ生きて、この痛みや苦しみを感じてよ、あなたはちゃんと生きているよ、そうあなたに語りかけるのは自傷行為をしている時のあなたです。いきなり切り付けられたら、びっくりしますか?自分を守りたいからです。血が出たら痛いと感じますか?あなたは確実に生きていて、これからも生きていてほしいからです。手がありますか?目がありますか?気持ちがありますか?沢山の事を楽しむ為です、あなたはこの先どんなに楽しい事をしたって、咎められません。あなたがどれだけ幸せになっても、神様は怒ったりなんてしないし、自分は味方です。そして私も、あなたが素晴らしい幸せを感じることに賛成します。私も、あなた自身も、あなたの味方です。

 

一番大切なのは、誰からも愛される事ではなく、自分が自分を愛している事実を知ることです。

 

私は、今どうしても消えてしまいたくて、どうしても楽になりたくて、沢山傷付いたあなたをとってもとっても愛しています。あなたのコンプレックスは、愛すべき長所になります。これを読むかもしれないみんな、大好きだよ。そして私、頑張っていてとっても偉いよ、生きていて、偉いよ、大好きだよ。

 

きっと私はこんな事を誰かに言われたくてこれを書きました。私はずっと、自分の愛し方が分からないともがいていました。でも、愛せてないと思っていた自分を私は凄く凄く愛しているはずなのです。

 

私は自殺未遂をした事があります。死んでしまいたいと思った時、ただそれしか考えられませんでした。死んでしまおうと思って計画を立てた時、無我夢中でした。沢山の強い薬たちを飲み込んでいる時、私は憎しみや悲しさ、恨み辛みでいっぱいでした。

意識が遠のいていく時、私はたくさんの人を愛している事に気が付きました。そして沢山の人に愛されていたのかもしれない事に、気が付きました。ごめんねと、ありがとうが、ずっとずっと止まりませんでした。呂律も回らなくなり、声も出せない私でしたが、強い想いが全身から溢れて世界に縋っているようでした。泣きながら、知り合いや、家族を思い出して、何度も謝罪と感謝を伝えたいと願いました。もう少し、やっぱり生きさせて欲しいと、願いました。おかしいですね。人間は無い物ねだりです。生きていたら、死にたくなりますし、死んだら、絶対に生きたくなるのです。

 

私は生きていますが、今でも死にたくなることが山ほどあって、死んでしまおうと思う事もあります。でもやっぱり、あの意識が遠のく中での、ごめんなさいもありがとうも何の形にも残してあげられなかったという後悔はとてつもなく大きく深く、死にたいと思うより悲しく寂しい感情でした。

 

あなたが死んだら私は悲しい。

私が死んでも、きっと誰かは絶対に悲しさや寂しさを感じるはずなんです。

私も、あなたも、頑張らなくていいからもう少しだけ自分って自分に愛されてるのかな?と考えてみてください。

 

死にたいと思って自殺しようとした人間が、誰も死なないでほしいと思うのは矛盾していておかしなことかも知れませんが、死ぬ前に、もっと素晴らしくておかしくて馬鹿らしくて大きな事を考えてください。そして、私があなたを愛していて、あなたをどうしても助けたいこと、あなたと同じ気持ちで、あなたを認めてくれる人が沢山いることを少しだけわかって下さい。

 

これは誰かのために書いたわけではありません、私が、私を愛していて、私はどうしても死にたくて、私は私にどうしても死んで欲しくないと願っているから書いたものです。

 

大丈夫、とってもとっても大好きだよ。

 

最近みた映画の話

最近2004年に公開された是枝裕和監督の日本映画、「誰も知らない」をみました。

実際に起きたネグレクトの事件が題材で、色々と辛い映画でした。

 

私の感想とネタバレを交えてお話するのでご了承ください。あ、みようか迷っている人、みた方がいいですよ。面白かったです。

凄く長くなりそうです、そのくらい心にズーンとのしかかってくるような作品だった。

 

 

 

2DKのアパートに、大きなスーツケースを何個か抱えて、母親のけい子(YOU)と息子の明(柳楽優弥、多分当時14歳だったかな?)が越してきます。

アパートの大家には、夫は長期出張していて、私と息子2人だけなんです。」と母親は挨拶をしますが、けい子には明以外の子供が3人も居ます。

さっき抱えていた大きなスーツケースの中に、次男の茂、次女のゆきが入っているんですよね。長女の京子も、駅から人目をはばかりながら、こっそり家にやってきます。

ここまで見て、なんで?と思いましたが、母親が結構ダメな母親なので、小さい子供が居ることを周囲に気が付かれると色々面倒なことが多いんですね。学校も通わせてもらってないんですけど、大家さんには適当に話を合わせて、長男は学校で成績がいいんだ、なんて嘘をついています。なんの罪悪感も無く、それが真実かのように嘘をつくんですよ、けい子は。

自分が悪いなんて微塵も思ってないんです。そして、周囲に知られないために、長男以外は外出を一歩も許していません。長女だけは、周りの人に気が付かれないようにベランダに出ることだけは許されていますが、下の小さい男の子と女の子は軟禁状態ですね。いや、これは監禁?

 

そしてこの子たち、4人全員お父さんが違うんです、どんだけって話ですよ、4人ともお父さんが違う子を産むなんてけい子は学習能力が欠如していますね、いや、分かっててやってるのかもしれない。いくら産んだってどうせ自分には関係ないから。

 

引っ越してきて最初の方は、日中けい子が百貨店で働く間に明が弟妹の世話をする日々が続きます。この明、本当に主婦みたいなんです。買い物に行って、弟妹の世話もきちんとして、お金の管理のために家計簿までつけて、本当にいい子です。

ですが、やがてけい子に新しい恋人が出来ます。どこの誰だかは知りませんが、その人に夢中。けい子の帰りがまちまちになります。

けい子は明に、「今お母さん好きな人がいるの。もし結婚出来たら、学校も行けて、いいお家にも住めるから、もうちょっと待っててね」なんて、期待させるような事を言ってましたね。いや、明としてはそんなの良いから母親やって欲しいよって感じなんですけど。

 

それで、結局久しぶりに家に帰ってきたと思ったら、クリスマスまでには絶対帰ると言い残して、少量のお金を置いてけい子は4人の子供を残して家を出ていきます。その後、クリスマスになっても正月になっても夏になっても帰ってきません。

そこから兄弟だけの、誰も知らない生活が始まりました。誰かにこの事を話したら、施設に連れていかれる、そして4人は離れ離れになる、と思ってこの子たちは必死で生き延びようとします。こんなお母さんでも、きっとお母さんの事はどこかで好きなんだろうね、お母さんが苦しむような事になるかもしれないと考えたら、絶対に大人になんて話せない。

 

最初のうちは母親から貰った少ないお金でなんとかやりくりしていたのですが、そんなの4人も子どもがいたらすぐ無くなります。

そして明は茂とゆきの父親たちにお金を借りに行くんですが、なんせ子どもを孕ませておいて覚悟が出来なかった男たち、お小遣い程度の感覚でしかくれません。

そして母親からの生活費も、送られてこなくなりました。料金滞納から電気・ガス・水道も止められ、子供たちだけの生活は現界です。

そのせいで皆徐々に衰弱していきますね、でも本当に皆元気で明るくて前向き。生き延びようと必死で涙が出てきます。

そんな中でも、明は下の子2人に辛い思いはさせまいと、コンビニから廃棄の弁当やおにぎりを貰ったり、たまには遊びに連れて行ったり、本当にいいお母さんのように弟妹の面倒を見ています。

 

ある日、4人は遊びに行った公園で不登校の中学生?である、紗希と知り合い、打ち解けます。この4人の家に招待された紗希は、部屋を見て驚き、同情します。無邪気に紗希に遊ぼうとせがむ小さなゆき、本当に可愛い。

可哀想に思ったのか、家賃が払えなくて追い出されそうだという明に紗希は、「お金なら私がなんとかしてあげる」と告げて、見知らぬサラリーマンとカラオケボックスに入っていきます。この子も凄くいい子なのに、不登校になって、きっと自分を大切に出来なくなってしまったんでしょうね、本当は心が優しいのに。でも、明は援助交際をしたんだと気が付いて、差しだされたお金を振り払ってしまいます。きっと紗希に少なからず好意を持っていたのかもしれないですね、好きな女の子に自分の為に、知らないおじさんと淫らな行為をさせてしまったなんて思ったらそんなお金絶対に受け取れません。悲しいし悔しかったでしょう。

 

いよいよ食料が底を突いてきて、コンビニに入った明は一度、悪戯をしている子供たちにおふざけで鞄に商品を入れられ、怒られた事があるのですが、今度は本当に、自分の意思で万引きをしてしまいます。万引きはいけないことだけど、もうここまでの事だと一概にダメだとは言えなくなってきますね。

 

水は公園で確保し、兄弟たちは一日一日を必死に生きのびます。小さい弟も必死で水の入った大きなペットボトルを重そうに持ってお手伝いしています。健気です。

 

そんなキツい毎日を、長男として必死で生きていた明ですが、小さなゆきちゃんがおもちゃのピアノを鳴らしていた事をうるさい!と怒ってしまいます。イライラしますよ、当たり前です、毎日必死の思いで生きているんですから八つ当たりしてしまう事もきっとあります。それでもピアノをやめないゆきちゃんを残して家を飛び出した先で、ひょんなことから少年野球チームの助っ人を頼まれ、日常を忘れて楽しむ明。明は元々野球が大好きなんですね。

 

そして家に戻った明が目にしたのは、ベランダの棚の物を取ろうとして転落し、そのまま目を覚まさなくなったゆきと、それを見つめながら呆然と座り込んでいる京子と茂の姿。まだ幼い子どもたちは、ゆきが死んだかもとか、死にそうな時にどうしなきゃいけないか、なんて分からず、何も出来ずに呆然とするしかない。

病院に連れて行くのも、薬を買うのもお金です。そして明はまた、薬を万引きして飲ませようと考えますが、その甲斐なく翌日ゆきは本当に息をしなくなってしまいました。自分がどうにも出来なかったことも、叱りつけて出ていってしまった間に起きた出来事だったことも、本当に辛い事です。それなのに、誰一人泣きません。私はきっと、凄く凄く辛くて泣きたいけど、泣いたら悲しみが深まるだけだと、常に気を張ってみんなを守らなきゃいけないと、そうおもって泣くことを我慢したのだと思います。泣いたときに慰めてくれる母親も居ないしね、辛いな。

 

 そのあと明は紗希にお金を借りて、ゆきの好きだったアポロチョコをコンビニで沢山買います。その後、スーツケースに亡骸を詰めようとしますが、越してきた時はすんなり入ったゆきはぎゅうぎゅうになっていて、ゆき、大きくなったんだな…と呟きます。生前ゆきが好きだった飛行機がよく見える羽田空港近くの河川敷に埋めて、紗希と二人で弔うのですが、そこで明ははじめて 、泣きはしないものの、「触ったら冷たくて、それが気持ち悪かったんだ…冷たくて、気持ち悪かったんだよ…」と詰まるような声で話します。演技力が半端ないです、本当にみているこちらも辛くて辛くて仕方がない。

 

次の日、何事も無かったかのようにコンビニで廃棄の弁当を貰う、3人の兄妹と紗希の姿が流れます、妹が一人死んだにも関わらず、まだこの生活は続くのです。誰も知らない、だれも知ろうとしてくれない、この子どもたちだけの生活が。

 

本当に最初から最後まで心が痛い映画でした。

母親役演じるYOUさんの演技も良くて、母親では無く完全に〝女〟なんですよね。YOUさんってこんなに色っぽかったっけ??と思いました。何もお色気シーンは無くても、仕草すべてに女を感じる演技です。そしてなんと言っても素晴らしく、この映画の一番の強みは子役たちの演技ですね。この映画では台本は渡さず、その場での指示で、アドリブで演技させていたようなのですが、本当に凄い。言葉が無くとも目だけで全ての感情が伝わる感じというか、とにかく凄い演技。カンヌで賞をとれたのも頷けます。

 この映画をみて、色んな人に「誰も知らない」

世界をみてほしいと感じましたね。私もきっと知らない、いや、知ろうとしていない世界が沢山あるんだと気が付かされました。

心に響く素敵な映画だったので皆さん是非。

 

なんか映画の宣伝みたいに大絶賛してしまったな、でもほんとだよ、結構よかった!

おわり

金木犀の話

 

この前、母と二人で少し遠めのコンビニまで散歩をした。普段私は車で移動することが圧倒的に多く、ほとんど歩かない。お金持ちなわけじゃないよ、ちょっと我儘なだけ。母も同じで、寧ろ移動手段がどうこうの前に家から出ない。

 

そんな私達が散歩をしていると、1分に1回は愚痴をこぼす。その日は暖かかったので、暑がりの母は、暑い暑い、疲れて仕方ないと、まるでヘンゼルとグレーテルのように道に愚痴をばらまいて歩いていた。そして私は、後ろで母が落とした愚痴を拾って歩いた。

 

私の母は愚痴マシーンだ。何に対しても否定的なのである。テレビを見ていても、すぐに芸能人の悪口や嫌いな所を見つけて苛立ちながら話す。そして、私は毎回それをうんうんと半分受け流しつつ肯定しつつ聞いている。

 

母にとって私はきっと、一番の理解者であり何をしても受け入れてもらえて無条件に愛してくれる必要不可欠な存在なのである。

母は、そんな私に、少しでも否定されたり、私はそうは思わないなどと言うとたちまち機嫌が悪くなる。顔にすぐ出る人なので、とてもあからさまに機嫌が悪い顔をする。ある意味わかりやすくて良いのだが、空気が悪くなるのが厄介だ。

だから、どんな意見であれ、どんな行動であれ、母が気に入ったらそれが良いのだ。それが母にとって良いのなら、私もそれでいい。本当に、大抵のことはそう思う。母が世間的に、一般的に正しいことを言っていると思っている訳ではなく、私たちの中ではそれが正解で構わないと思う。だって母が良いと思うものは良いんだから。

 

いつも私は、母の事を赤ちゃんだと思うようにしている。人間は皆この世に誕生して成長し、老いてくるとまた赤ちゃんに戻るのだ。だからきっと、母は今2歳くらいの可愛い可愛い赤ちゃんなのだ。そう思うと、可愛く思える。

だが、決して下に見ているわけでも馬鹿にしているわけでも無い。断じてない。私は母を尊敬している。私に無い感覚を沢山持っていて、とても偉大な母を尊敬している。もっというなら、崇拝していると言っても過言ではないレベルなのだ。そして、私は母の事が大好きだ。

 

そんな母と散歩している途中、公園の横を通りかかった。まだ私の妹が小さいときによく来ていた公園だ。そこに金木犀の木があった。オレンジ色が点々とあって見た目にも綺麗で、香りも私は好きなのだが、母は強い匂いが嫌いである。なんの匂いでも、強いと嫌がるのだ。きっと前世は犬だったに違いないと思えるくらい匂いに敏感な人なので、予想通り顔をしかめ、臭い。と言った。その場を早く通り過ぎようとする母に、匂いの余韻を楽しみながら小走りで私は母について行った。

 

きっと私と母の関係性は死ぬまでこうなのだ、いや、死んでもずっとこうなのだ。でも私はそれでいい、母の自分らしく人の事を気にせず貫いていける強くかっこいい所を私は心の底から愛しているからだ。

 

母が死んだら、毎日私の好きな花を添えようと思う、金木犀のように香りが強い花でも、お構い無しに添えてやろうと思う。だって私は大人になったら、きっと母のように自分らしくて強くてかっこよくて、逆に言うととっても面倒臭い大人になっているはずだから。

継続が苦手な話

 

たまには自由に、自分のために文章を書いてみようと思う。

 

私は文章を書くのが幼い頃から好きで、得意だった。国語の成績はいつも上位だし、読書感想文では毎回何かしらの賞を貰っていた。

小さい頃から周りに文章を褒められていた私は自惚れて、いつしか〝小説家になりたい〟という無謀な夢を抱く事になったのだ。幼い私は文章を書くお仕事=小説家だった。

 

だが私は、継続するということが大の苦手である。文章だけの話ではなく、全てにおいて何かを続ける事がとことん苦手な人間なのである。

例えば勉強、同じものを何回も書く漢字の書き取り練習なんかは本当に苦手だった。幸い本が好きだったので漢字の成績が急降下する事は免れたが、書き取りの練習はほぼテレビや音楽を聴きながらで集中した事は一度もないだろう。

恋愛も同じ人にずっと同じ愛を向け続ける事が苦手で、嫌いにはならなくても飽きは来る。付き合っていても、恋愛以外の趣味や仕事の方が大切になってきてしまう。だんだん恋人の優先順位も下がってきて、やがて嫌われる。

食べ物でも同じだ。一度好きになったものを何年も好きでい続けた試しがない。昨日好きだったものでも今日また同じものを食べると何故だか昨日の感動はすっかり消えているのだ。ちなみに最近は辛いものにハマっていて、色々なスパイスがあるけれどその中でも胡椒がダントツで美味しい。山ほど胡椒をかけて、汗と涙と鼻水を垂らしながらラーメンを食べるのが最高だという事に最近初めて気がついた。こんなに、食べた後に達成感となんとも言えないスッキリ感を味わえるならもっと早く知りたかった。

 

…そう、こういう事なのだ。

継続が苦手だという話から胡椒たっぷりラーメンが美味しい話になってしまう。

私の頭の中の引き出しは、常に空き巣が入った後のような状態で、そこから小さな指輪を探す様にして記憶を引き出している。だから、指輪を見つける前に飽きが来て色んな記憶に手を出してしまうのだ。

 

こんな私が、継続して書く事が大切な小説家なんて職業に向いているだろうか?

まず無理だ。最初は楽しく書いていても、途中で飽きて書くことをつまらないと思うようになってしまう。実際私の部屋には書きかけの物語がわんさかある。最後まで書き上げたものなど全くと言っていいほど無いのだ。だからいつも、短い話をちょこちょこと書いている。

読書感想文や、論文なんかは凄く楽しく早く書けたのに、大好きな小説は書けないなんて。

 

なぜ継続が出来ないかという話をします。

私は〝 早く出来たら偉い〟と思って育ってきたので、きっとそのせいな気がしている。作文も私は毎回一番乗りで先生に提出して、一番乗りで花丸を貰っていた。だからどうしたって時間がかかって、時間をかければかけるほど深まる小説には元から向いていないのだ。

 

まあ、向いている、向いてないはどうしようもない事なので、ちょこちょこ書きかけの物語を量産しながら、書く事自体に飽きないように楽しめるようにやっていきたいと思います。書く仕事を私なんかにさせてくれる人も居るからね。

 

この性格なので今はこのブログに書きたいことが沢山ある。色んなテーマについて話したい。だがきっと、3日くらいは頻繁に書いているけれど、ある日パタッと更新が途切れるかもしれない。まあ、寛容で時間のある人はたまに読んだり読まなかったりしてやってください。

 

ラーメン食べよ。